BPFK の gadri の説明は、論理学の知識が多少ある者にとって誤解しやすい(議論)。
このページでは、論理学の知識がある者でも BPFK の gadri を正しく理解できるように解説する。
このページでは gadri を解説するために以下の用語を使う。
ロジバンの項について論理学的観点から理解するには、複数量化 (plural quantification) について知っておく必要がある。
複数量化は、「項が複数のものを指す場合にしか意味をなさないような述語」を使った命題を表現しやすくするために考えだされた。
この文は、論理学的に見れば、「人が」という定項と「集まって」「料理して」「食べた」という3つの述語からなる命題である。
ただ、これらの3つの述語は、項の扱い方が互いに異なる。
この例文について、項の扱い方を詳しく見てみよう。
「人が集まって」と言うとき、「集まって」という述語の意味から考えて、「人が」という定項は複数の人を指しているはずだ。
このように、項の指すものが、複数のものの集団として述語を満たすとき、「項が集団的に (collectively) 述語を満たす」と言う。
また、この定項が指す複数の人の各人について、「Aさんが集まって」「Bさんが集まって」といった文に分けて考えると、それぞれの文は意味をなさない。
このように、項が指す複数のもののそれぞれが、単独では述語を満たすことができないとき、「項が非分配的に (non-distributively) 述語を満たす」と言う。
一方、「人が食べた」と言うときには、「人が」という定項が複数の人を指しているにしても、「食べた」という述語は各人それぞれが満たしている。つまり、「Aさんが食べた」「Bさんが食べた」というそれぞれの文が有意味である。
このように、項を構成する個のそれぞれが単独で述語を満たすとき、「項が分配的に (distributively) 述語を満たす」と言う。
また、「食べる」という述語が、「食べ物を口から入れて咀嚼し喉を通して胃へ送る」という行為を表すとすれば、「人」が集団的に「食べる」という述語を満たしているとは考えにくい。二人羽織で食べるにしても、手の役をしている人は、顔の役をしている人の食べるのを手伝っているだけであり、実際に食べているのは集団ではなくて個人だ。
このように、項が指す複数のものが、集団では述語を満たすことができないとき、「項が非集団的に (non-collectively) 述語を満たす」と言う。
「集団的」「分配的」という性質が両立するような述語もある。
「人が料理して」というとき、複数の人が協力して餅つきをし、カレーとバーベキューについてはそれぞれの人が分担するということも可能である。
この場合、「人が」という定項が複数の人を指し、それが集団的に餅つきをし、分配的にカレーかバーベキューを作っていると見なされる。
そう考えると、「人が」という項は「料理して」という述語を集団的かつ分配的に満たすことになる。
この例文で注目すべきところは、「人が」という定項が指すもの自体は、「集まって」「料理して」「食べた」という3つの述語に共通の対象であり、同じものを指しているという点である。述語の満たし方が集団的であるか分配的であるかということに関係なく、項が指すものは同じである。
もし「集団的」の場合に「人々の集合」という項を使うとしたら、その項が「集まって」という述語を満たすと解釈できるかもしれないが、同じ項が「食べた」を満たすことはできない。「人々の集合」という抽象的な存在が「食べた」という行為をするとは考えにくいからだ。
以下で説明する複数定項や複数変項を使うと、集合を使わずに述語論理の形式で複数のものを表すことが可能になる。
集合を使わずに、集団的か分配的かという区別をせずに、さらに、単数か複数かの区別さえもせずに、議論領域の中の特定の対象を指す項を「複数定項 (plural constant)」と呼ぶことにする。
複数定項を代入できる変項を「複数変項 (plural variable)」と呼ぶ。
複数変項を量化することを「複数量化 (plural quantification)」と呼び、その際に使われる量化子を「複数量化子 (plural quantifier)」、複数量化子が付いた複数変項を「束縛複数変項 (bound plural variable)」と呼ぶ。
複数定項や複数変項を扱う関係 {me} と {jo'u} を導入する。
X me Y (me'u) | X is among Y | XはYなものだ |
ここでXとYは複数定項か複数変項を表す。 文法上は {me Y (me'u)} という塊がselbriとなる。 {me'u} は {me} で始まる構造を閉じるための、省略可能な終端詞。
項を X, Y, Z で表すと、 {me} には以下の性質がある。
性質3は、XとYの指示対象が同一であるということを {X me Y ijebo Y me X} という {me} の関係として表現できるということだ。
X jo'u Y | X and Y | XとY |
2つの項XとYを合成し、全体で1つの複数定項か複数変項となる。
項を X, Y で表すと、 {jo'u} には以下の性質がある。
性質2は {jo'u} の前後の項の順番を逆にしても同じものを指すということを表す。
性質3は {jo'u} で繋がった項の一部をもう一度 {jo'u} で合成しても、全体の指すものは変わらないということだ。
{jo'u} を使うと、例えば以下のような表現が可能になる。
このBとCのそれぞれは、「個」でなくても構わない。
{jukpa} (料理して)という述語は、集団的にも分配的にも解釈できるが、{by jo'u cy} という複数定項は、{jukpa} を集団的に満たすのか、分配的に満たすのかということを明示していない。「集団的に」料理するということを明示したい場合には {by joi cy} あるいは {lu'o by jo'u cy} と言う。 逆に、「分配的に」料理することを明示したい場合は {lu'a by jo'u cy} と言う。 ただし、このようにして集団性や分配性を明示した項を、 {jmaji} や {citka} のような他の述語がそのまま共有できるとは限らない。
下の図は複数定項を頂点とする有向グラフとして、 {me} と {jo'u} を表現してみたものである。
複数定項の指示対象は必ずしも複数ではなく、1個の個を指すことも可能である。
個 (an individual) は以下のように定義される。
ここで {ro'oi} は la xorxes が提案した試験的 cmavo で、「全ての」という意味になる複数量化子である。 {ro'oi da} によって「da に当てはまる全てのものについて」という束縛複数変項を表す。 この定義は「Xなものであるような da にあてはまる全てのものについて、Xは da なものだ」という条件が満たされるとき、「Xは個である」と呼ぶということを表している。 つまり {X me da} となるようなdaにあてはまるものが、X自体以外には議論領域内に存在しないことを「Xは個である」と言う。
XとYのそれぞれが個であるとき、 {X jo'u Y} を「個たち (individuals)」と呼ぶことにする。 X と Y のそれぞれが個または個たちであるときも、 {X jo'u Y} を個たちと呼ぶ。
複数定項 (plural constant) のうち、個 (an individual) であるものを「単数定項 (singular constant)」と呼ぶ。
X と Y のそれぞれが複数であろうと単数であろうと、 {X jo'u Y} は単数定項ではない。 なぜなら
が成り立つので、 {X jo'u Y} は個の条件 {ro'oi da poi ke'a me X jo'u Y zo'u X jo'u Y me da} を満たさないからである。
束縛複数変項に対し、その束縛複数変項の変域を個だけに制限したものが、束縛単数変項 (bound singular variable) である。
ロジバンで公式に定義されている {ro da} (da に当てはまる全てのものについて)や {su'o da} (da に当てはまるものが少なくとも1つ存在し)は束縛単数変項であり、 これらを束縛複数変項で表すと以下のようになる。
ro da | ro'oi da poi ro'oi de poi ke'a xi pa me ke'a xi re zo'u ke'a xi re me de | ||
su'o da | su'oi da poi ro'oi de poi ke'a xi pa me ke'a xi re zo'u ke'a xi re me de |
ここで {su'oi} は、 {ro'oi} と同様、 la xorxes が提案した試験的 cmavo で、「存在し」という意味になる複数量化子である。 {su'oi} が「少なくとも1つ」ではないことに注意しよう。 {su'oi da} によって「da に当てはまるものが存在し」という束縛複数変項を表す。
例えば {A jo'u B} という複数定項は、束縛複数変項の変域に入ることができるが、個ではないので、束縛単数変項の変域に入ることはできない。
複数定項の指示対象が個でも個たちでもないような議論領域を想定することは可能である。
例えば、以下の命題が真であるような議論領域を考えよう。
つまり、この議論領域においては、 {X me ko'a} を満たす全ての X に対して、 {Y me X} であって {X me Y} ではないという Y が必ず存在する。
ro'oi da を naku su'oi da naku に書き換え
最も内側の naku を命題内に移動し
su'oi da poi を ije に書き換えて命題内に移動し
ije naku を ijenai に書き換え
一方、 me の性質により、
は常に真であるから、 ko'a は、条件1の da の変域に含まれる。 従って、条件1の ro'oi da を ko'a に置き換えても真となる。 つまり
が成り立つ。
条件1-1と仮定2-4は矛盾する。
背理法により、仮定2は棄却される。
つまり ko'a は個ではない。
また、 ko'a を A jo'u B と表すことができる場合、 jo'u の性質により
であるから A と B はそれぞれ 条件1 の da の変域内にあり、条件1-1と同様の考察によって、 A も B も個ではない。
従って、 ko'a は個たちでもない。
証明終わり
このように ko'a が個でも個たちでもない場合、それはどんなものを指していると考えられるだろうか?
例えば物質名詞が指すものを表していると見なすことができる。
パンの切れ端もまたパンであるという世界観を持つ話し手にとって、パンは個でも個たちでもない。
(関連議論: ko'a=lo sodbo の場合について、以上の証明と同様の証明をロジバンのみで書いたものもある。)
複数定項 C に関して、以下の論理公理が与えられる。
この論理公理は、「ある議論領域において、複数定項をbrodaのx1とする命題が成り立つならば、brodaのx1となる指示対象がその議論領域内に存在する」ということを表す。
つまり、議論領域の中に指示対象が存在しないような項を、複数定項で表すことはできない。 このように存在しないものを表す項は、「存在し」という意味の束縛複数変項 {su'oi da} を否定する形 {naku su'oi da} によって表現される。
lo [PA] broda (ku) | zo'e noi ke'a broda [gi'e zilkancu li PA lo broda] (ku'o) | what is/are broda [that is/are PA in total] | broda なもの[で、全部でPA個] |
lo PA sumti (ku) | lo PA me sumti (me'u) (ku) | what is/are among sumti that is/are PA in total | sumti なもので、全部でPA個 |
ku, ku'o, me'u は省略可能な終端詞である。
{lo PA} のように gadri の後に量化子が置かれる量化を「内部量化」と呼ぼう。 内部量化については、後ほど詳しく議論する。
これに対して、gadriの前、あるいはもっと一般的に、項の前に量化子が置かれる量化を「外部量化」と呼ぼう。 外部量化については、後ほど簡単に説明する。
gadri によって形成される sumti は、全て zo'e に展開されるように定義されている。 つまり最も一般的な複数定項は単独の zo'e で表され、それに説明を追加したものが gadri で形成される sumti となる。
{jukpa} (料理して)という述語は、集団的にも分配的にも解釈できるが、{lo prenu} という複数定項は、{jukpa} を集団的に満たすのか、分配的に満たすのかということを明示していない。「集団的に」料理するということを明示したい場合には、後述の {loi} を使って {loi prenu}と言う。 逆に、「分配的に」料理することを明示したい場合は、{ro lo prenu} のような外部量化を使うか、または {lu'a lo prenu} と言う。 ただし、このようにして集団性や分配性を明示した項を、 {jmaji} や {citka} のような他の述語が共有できるとは限らない。
loi [PA] broda | lo gunma be lo [PA] broda | ||
lei [PA] broda | lo gunma be le [PA] broda | ||
lai [PA] broda | lo gunma be la [PA] broda | ||
loi PA sumti | lo gunma be lo PA sumti | ||
lei PA sumti | lo gunma be le PA sumti | ||
lai PA sumti | lo gunma be la PA sumti |
このように、 {loi/lei/lai} は {lo gunma be lo/le/la} という別の複数定項によって定義されているので、 {lo broda} や {lo PA sumti} を直接扱うことにはならず、 {lo gunma} という複数定項として扱われる。 このため {lo broda} や {lo PA sumti} が個ではない場合でも、 {loi broda} や {loi PA sumti} が、以下の条件下で個であることは可能である:
lo'i [PA] broda | lo selcmi be lo [PA] broda | ||
le'i [PA] broda | lo selcmi be le [PA] broda | ||
la'i [PA] broda | lo selcmi be la [PA] broda | ||
lo'i PA sumti | lo selcmi be lo PA sumti | ||
le'i PA sumti | lo selcmi be le PA sumti | ||
la'i PA sumti | lo selcmi be la PA sumti |
{lo'i/le'i/la'i} は {lo selcmi be lo/le/la} という別の複数変項によって定義されているので、 {lo broda} や {lo PA sumti} を直接扱うことにはならず、 {lo selcmi} という複数定項として扱われる。
空集合は {lo selcmi be no da} であり、また、((|#a53144d82d50cb4f3ba5484fe6b2ec29d|次節))で述べるように {lo no broda} という表現は公式定義では無意味であるから、 lo'i/le'i/la'i によって空集合を表現することはできない。
内部量化の BPFKによる定義は以下のようになっている。
lo [PA] broda | zo'e noi ke'a broda [gi'e zilkancu li PA lo broda] | ||
lo PA sumti | lo PA me sumti |
つまり内部量化は、 zilkancu_3 となる {lo broda} や {lo me sumti} を単位(つまり1)として数えた場合の数を表す。
しかし、zilkancuの意味が漠然としているので、 mei を使って以下のように定義し直す案が出された。
(D1) ko'a su'o N mei | =ca'e | su'oi da poi me ko'a ku'o su'oi de poi me ko'a zo'u ge da su'o N-1 mei ginai de me da | |
(D2) ko'a N mei | =ca'e | ko'a su'o N mei gi'e nai su'o N+1 mei | |
(D3) lo PA broda | =ca'e | zo'e noi ke'a PA mei gi'e broda |
公理1とこれらの定義によって、
ということが以下のようにして証明される。
ko'a N mei | = | ko'a su'o N mei gi'e nai su'o N+1 mei | |
= | ge ko'a su'o N mei -----(S1) | ||
gi naku ko'a su'o N+1 mei -----(S2) |
(S2) 部分に (D1) を適用すると
(S2) | = | naku su'oi da poi me ko'a ku'o su'oi de poi me ko'a zo'u | |
ge da su'o N mei | |||
ginai de me da | |||
= | ro'oi da poi me ko'a ku'o ro'oi de poi me ko'a zo'u | ||
naku ge da su'o N mei | |||
gi naku de me da | |||
= | ro'oi da poi me ko'a ku'o ro'oi de poi me ko'a zo'u | ||
ganai da su'o N mei | |||
gi de me da |
従って (D2) は
ko'a N mei | = | ge (S1) gi (S2) | |
= | ge ko'a su'o N mei | ||
gi ro'oi da poi me ko'a ku'o ro'oi de poi me ko'a zo'u | |||
ganai da su'o N mei | |||
gi de me da |
これは N=1 のとき
ko'a pa mei | = | ge ko'a su'o pa mei | |
gi ro'oi da poi me ko'a ku'o ro'oi de poi me ko'a zo'u | |||
ganai da su'o pa mei | |||
gi de me da |
であるが、公理1があるので
ko'a pa mei | = | ro'oi da poi me ko'a ku'o ro'oi de poi me ko'a zo'u de me da |
この右辺は「ko'a は個である」の条件 {ro'oi da poi ke'a me ko'a zo'u ko'a me da} を含意する。またその逆も成り立つ。
証明終わり
下の図は4個のものを数え上げるしくみを有向グラフで表したものである。 この図では X me X のような自分に帰ってくるループを省略してある。 個数を数えるということは、 me によって関係付けられる有向グラフから、木の形となる部分グラフを選ぶことに相当する。 例えば図のマゼンダ色の部分である。
gadri で形成される項は複数定項だから、複数定項に関する論理公理によって、 {lo broda} は {su'oi da zo'u da broda} ということを含意している。つまり {lo no broda} という表現は、「存在していてその数が0」ということを含意し、意味をなさない。
このことは、複数変項の存在否定 {naku su'oi da} を公式のロジバンでは表現できないということを意味する。
複数変項の存在否定表現が必要になるのは以下のような場合だ。
この返答は {lo no prenu cu jmaji gi'e jukpa gi'e citka} の簡略形である。
この命題は、 {lo no prenu} が selbri {jmaji} を集団的かつ (je) 非分配的に、 {jukpa} を集団的または (ja) 分配的に、 {citka} を非集団的かつ (je) 分配的に満たしていることを表す。 非分配的に満たすべき述語 {jmaji} を含むので、 束縛単数変項の存在否定 {naku su'o da = no da} に置き換えることはできない。 また、非集団的に満たすべき述語 {citka} を含むので、この {lo} を、後ほど定義する {loi}={lo gunma be lo} に置き換えることもできない。
このような命題では、 {lo no broda} という表現に対して、複数変項の存在否定という意味を与えることが必要になる。
そこで {lo PA broda} の定義の PA=0 の場合に対して、以下のような定義を提案する。
lo no broda | =ca'e | naku su'oi da poi ke'a broda |
({naku lo broda} とする定議案も良さそうだが、そうすると複数定項を含む命題全体の否定となり、量化が含意されなくなるので、上のように提案することにした。)
公理1によって、個でも個たちでもないようなものは {(su'o) N mei} や {lo N broda} という表現から排除される。
それなら piPA という量化を使えるかというと、やはり個でも個たちでもないようなものには使えない。
piPA は現状では外部量化についてしか定義されていない。
piPA sumti | lo piPA si'e be pa me sumti |
このように、 piPA による外部量化の実体は lo piPA si'e という複数定項なので、これ自体は束縛単数変項ではない。 しかし {piPA si'e} の x2 として {pa me sumti} が付いていて、これには PA broda の定義
PA broda | PA da poi broda |
が適用されるため、{me sumti} の x1 に当てはまるものとして個がある場合にしか成立しない。 つまり、個でも個たちでもないようなものは、 piPA という外部量化表現からも排除される。
piPA を内部量化でも定義するという案もあり得る。
その場合は、外部量化の piPA の形に合わせて、以下のような形にするのが理想的だ。
lo piPA broda | =ca'e | zo'e noi ke'a piPA si'e be lo pa broda |
そうすると、個でも個たちでもないようなものは依然として、 {lo pa broda} によって表現できない限り、内部量化の piPA 表現からも排除される。
ほかの望みの綱として、 {PA si'e} の表現を、個でも個たちでもないようなものの数量表現に利用するという案がある。 しかし、現在の si'e のBPFK定義は pagbu に依存している。
x1 number si'e x2 | x1 pagbu x2 gi'e klani li number lo se gradu be x2 |
pagbu の x1 が x2 よりも大きくはならないと解釈すれば、si'e を使ってものを数え上げる際に、単位の変更を余儀なくされるので、非常に使いにくい。 {PA si'e} の PA が1よりも大きくなれるように si'e の定義を変えれば、個でも個たちでもないようなものの数量表現一般に si'e を使うことが可能になる。
あるいは、((|#a53144d82d50cb4f3ba5484fe6b2ec29d|3.1節))の公理1を使わないことにすれば、 定義 (D1) (D2) (D3) を個でも個たちでもないようなものに適用可能である。
この場合、話し手は、複数定項をいくつか選んで、 ko'a su'o pa mei であると決めておけば良い。 この際に、選ばれた複数定項が部分的に重複することのないように、注意深く選ぶ必要がある。
こうしておくと、その ko'a に関しては、 (D2) から
ganai ko'a pa mei | |||
gi ro'oi de poi me ko'a zo'u de me ko'a |
と言えるだけであって、{ko'a pa mei} の ko'a が個である必要はない。
公理1を使わずに定義 (D1) (D2) (D3) を利用する場合は、 (D1) の de の条件として {gi'e su'o pa mei} を追加しておく必要がある(公理1を使う場合は、de の変域にある指示対象がこの条件を自動的に満たしている)。
(D1') ko'a su'o N mei | =ca'e | su'oi da poi me ko'a ku'o su'oi de poi me ko'a gi'e su'o pa mei zo'u ge da su'o N-1 mei ginai de me da | |
(D2) ko'a N mei | =ca'e | ko'a su'o N mei gi'e nai su'o N+1 mei | |
(D3) lo PA broda | =ca'e | zo'e noi ke'a PA mei gi'e broda |
これによって個でも個たちでもないようなものを内部量化することが可能になる。 さらに、これに対して上記の「内部量化の piPA の非公式な定議案」も適用できるようになる。
下の図は個でも個たちでもないようなものを数え上げるしくみを有向グラフで表したものである。 この図では X me X のような自分に帰ってくるループを省略してある。 無限個の頂点(複数定項)のうち、話し手が su'o pa mei として選んだ頂点をピンク色で表している。 これらを数え上げるということは、 me によって関係付けられる有向グラフから、木の形となる部分グラフを選ぶことに相当する。 例えば図の青色の部分である。
piPA以外の外部量化は束縛単数変項である。
PA sumti | PA da poi ke'a me sumti | ||
PA broda | PA da poi broda | ||
piPA sumti | lo piPA si'e be pa me sumti |
piPAによる外部量化は、lo piPA si'e という複数定項を表す。 ただし {piPA si'e} の x2 として {pa me sumti} という外部量化を含んでいる。
以下の話は解説者 guskant の覚書であり、 gadri の理解のために全く重要ではない。
ただし、 {lo broda} が複数定項であることと、複数定項に関する論理公理によって、 {lo broda cu brode} という命題は、 {su'oi da brode} という命題を暗黙的に含意している。
lo cidja を展開すると
noi の定義により
to toi 内は挿入句だから、 bridi 本体は
zo'e は複数定項である。 複数定項に関する論理公理により、この命題は
を含意する。つまり「この山に欠く何か」の指示対象が議論領域内に存在する。
この表現の奇妙さは、 claxu の x2 に、非存在を表すような意味合いがあるかのように見えることから生じる。
辻褄が合うように解釈するならば、 claxu 自体は x2 の指示対象の所在が x1 に位置していないということを表しているだけで、議論領域内の存在については何も主張しないと考えれば良い。
仮に、 zo'e が自由変項・束縛複数変項・複数定項のどれにでもなれるという解釈をすれば、論理学的な観点から合理的である。
しかしこの考えは、この議論の中で、明確に否定された。 公式解釈による zo'e は常に複数定項であることが明らかになった。
以下にこれらの考えを比較検討し、 zo'e が複数定項であるという公式解釈から生じる問題点の解消を試みる。
「zo'e は本質的には自由変項であり、文脈に応じて議論領域が決まり、議論領域に応じて、 zo'e に何らかの定項が代入されているか、複数量化子によって量化されていると見なされる」という解釈をすると仮定した場合の、利点と欠点を挙げる。
この仮定の下では、 lo PA broda における PA=0 の場合を、((|#ad4023e9323e039bf4408972b2b4a392b|3.1.1.1節))の定議案のように特異点扱いする必要は無かった。 lo PA broda が本来自由変項であれば、 PA>0 のときは複数定項が代入されるか、∃X などの複数量化子によって束縛され、 PA=0 のときには ¬∃X によって束縛されると解釈すれば良かったからである。
この解釈は、 PA=0 の時のみならず、 PA>0 についても、より自然言語に近い解釈を可能にする。例えば
この最後に出てくる方の lo xanto は数えの単位であるから、特定のものを指さずに(つまり定項と見なさずに)、むしろ複数量化によって「1」と量化されている束縛複数変項と解釈するほうが自然である。
束縛複数変項と解釈する場合には、他の量化項や naku との相対的な出現順序を考慮しなければならないが、項である以上、冠頭に出すこともできるので、冠頭でその順序を明記することも可能である。
さらに、この考え方は、文脈のない文の真理値が一般には不定であるという自然言語の性質を体現してもいる。 「zo'e が本質的には自由変項であり、文脈によって束縛されたり定項が代入されたりしている」と解釈しておけば、論理性も解釈上の構造美も損なわずに、ロジバン文の自然な表現が可能だった。
zo'e が文脈によって自由変項だったり、束縛複数変項だったり、複数定項だったりするので、単一のbridiからは、その中の項がどのような項であるかを判断できず、文の真理値を判断することができない。
ただし、このように、文の真理値が文脈に依存するという側面は、あらゆる自然言語が共有する性質である。
また、 zo'e が複数定項だけを表すという現行解釈を取るにしても、「何らかの議論領域が与えられている」ということが判断出来るだけで、文脈がわからなければ、どんな議論領域かを判断できないのだから、文脈無しでは文の真理値を判断できないという問題が解消されるわけではない。
公式解釈による zo'e は複数定項であるから、以下のような問題点が生じる。
PA=0 の場合の lo PA broda の合理的な解釈は、公式にはロジバンから追放される。 つまり、複数論理では当然扱える ¬∃X という複数量化が、ロジバンでは公式には扱えない。 lo no broda という表現をしたい場合には、((|#ad4023e9323e039bf4408972b2b4a392b|3.1.1.1節))のように、非公式の解釈を提案する必要がある。
lo PA broda が、文脈によっては束縛複数変項であるという解釈が不可能になったので、 数えの単位のような、特定のものを指さないはずの項も、何らかの定項であると解釈しなければいけなくなった。 例えば、
のように、数えの単位としての lo xanto を命題の中で使うために、 メートル原器のような、なんらかの「ゾウ原器」を議論領域の中に想定するという、いささか不自然かもしれない解釈が強いられる(現代ではもはやメートル原器さえ用いられていないにも関わらず)。
lo broda が複数定項として解釈される限り、以下のロジバン文は無意味である:
なぜなら実際のところ、光子は個であり、個数を数えることはできるのだが、この光子とあの光子といった区別をすることはできない、つまり、「特定の」光子を指すことは不可能だからだ。 光子などの素粒子を表す項には、量化表現こそが相応しい。ところがロジバンには公式には複数量化子が無いので、上記のように selbri を集団的にも分配的にも満たすような項として、量化を明示することはできない。 lo broda が複数定項であると宣言されたので、 lo guska'u を束縛複数変項として解釈する余地も残されていない。 解決策としては、 la xorxes が提案した非公式の複数量化子 su'oi を使うしかない。
BPFK の gadri のページの例文にも出ている、
といった一般論においても、 {lo pa pixra} や {lo ki'o valsi}
は何か特定のものを指していると解釈される。 議論領域の中に、一般論に登場する sumti 用の、何らかの指示対象を用意しておかなければならない。
直感的には lo ではなく lo'e を使えば良いが、現状では lo'e と lo の関係について結論が出ていないので、 lo'e について論理学的な観点から説明することはまだできない。
あるいは、一般論の表現において指示対象への明言を避ける方法として、命題全体を NU類の中に入れるという方法が考えられる。 NU類内の命題の真理値は、 NU類外の命題の真理値に影響を及ぼさないからである(指示的に不透明 referentially opaque; CLL9.7など参照)。 言い換えれば、NU類内部の命題の議論領域はNU類外部の命題の議論領域と異なる。
この方法を採用して、上記のことわざを表すなら、例えば si'o を使って
という形にすれば良い。 si'o の x1 は暗黙の zo'e であり、複数定項として議論領域の中に指示対象を持つ。 一般論の解釈として、 si'o の x1 に入る指示対象を想定することは、 {lo pa pixra} や {lo ki'o valsi} の指示対象を想定するよりも自然である。
(The Complete Lojban Language では、このように terbri を明言しない bridi を「観察文」と呼んでいるが、ここで述べた用法では、この発話が特定の外部刺激 (stimulus) によって常に起こるものとは言えないから、観察文とする解釈は妥当ではない。)
慣習として、単語の定義などではKOhA4類の ko'V/fo'V シリーズが自由変項として使われている。 ただし本来これらは複数定項である。
この慣習に従わずに自由変項を使った文(開文 open sentence)を表現したい場合は、 ke'a か ce'u を使うのが妥当だ。
なぜなら、これらを terbri とする bridi の真理値は決まらないからだ。
ke'a が2回以上現れる bridi では、 ke'a が同一の項を表すと見なされる:
一方、 ce'u が2回以上現れる bridi では、 ce'u が同一の項を表すとは限らない:
この性質を考慮すると、全く文脈のない状況で自由変項を使った開文 (open sentence) を表現するには、「同一の項」という制限がある ke'a よりも、制限のない ce'u の方が使いやすい。